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東丘少年剣友会の生い立ち

昭和40年当時『有松町の剣道クラブ』が有松中学校の体育館で稽古をしていました。

昭和344月に名古屋市最大規模の鳴海団地が出来、この地区は急に人口が増え始め鳴海ヶ丘幼稚園、東丘小学校、少し遅れて東陵中学校が出来ました。

この新しい団地に駐在した鳥居豊先生が団地の子供達を有松中学校での剣道教室に送迎していました。その頃の指導者には水上邦彦先生と父兄で剣道経験者、後の東丘少年剣友会の代表里見恭二郎先生がいました。

その後、有松中学の体育館が使用できなくなり鳥居豊先生が東丘小学校の校長先生と交渉し週2回使用することが許可されました。当時はまだ世間の一部では占領政策の影響が残っていて学校によっては剣道に対して無理解のところも多くあったようですが東丘小学校の校長先生は快く貸してくれたばかりではなくその後も色々と協力してくれました。

東丘小学校に移ってからは有松小学校の生徒も参加するようになり30人以上の会員になったこともありました。指導者も里見先生、水上先生や三菱自動車の若手剣道部員に助けられながら運営されていました。その頃から東丘少年剣友会の名称を使うようになりました。

当時、鳴海町の剣道教室の指導者を中心に土屋徳男師範を代表とする緑区剣道連盟が出来て緑区剣道大会などが模様されるようになりました。土屋師範は戦後できた剣道連盟の方針がスポーツ化を前提にGHQの許可を受けて活動していたのに対し、占領政策の束縛を受けなくなってから出来た武徳会が戦前の『武徳会』の伝統を継承するものとして両者の融合を図りたいという考えを基に運営されていましたが、昭和56年土屋先生が亡くなられてから数年した頃、名古屋市剣道連盟の下部組織として新たに緑区剣道連盟が発足し今までの緑区剣道連盟とが対立し東丘少年剣友会はどちらにも属さず独自の道を歩み始めました。

 宮本先生は昭和60年頃から指導にあたるようになり、まもなく林先生が当時盛んになっていた家庭婦人剣道愛好家として稽古に参加するようになりました。久野先生は小学生の初心者として稽古をするのを嫌がっていました。里見先生は平成5年頃愛知での仕事を終え故郷の東京に戻られました。その時、宮本先生が代表となり、支援のための後援会を組織し、引き継がれました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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